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宮城県美ネット/宮城県美術館 初代学芸部長 酒井哲朗氏 挨拶




2020年7月21日(火曜)

「宮城県美術館の現地存続を求める県民ネットワーク」設立総会

酒井哲朗さん 発言抜粋

設立総会には、宮城県美術館の初代学芸部長であり、三重県立美術館館長や福島県立美術館館長などを歴任された酒井哲朗さんにお越しいただきました。

宮城県美術館の建物の設計段階から関わった酒井さんからは、美術館の目指すモデル、企業や自治体からの寄付、県民からの反対、佐藤忠良さんが作品選定に関わったことなど、建設当時のエピソードをお話しいただきました。


 

【「東北ではじめての本格的な美術館をつくる」】


 移転問題が河北新報に出たときに、建築家の大宇根弘司さん(注1)からお電話をいただいて、「大変なことになっている、何とかならないか」という話を聞いたんですが、「これは宮城県の人たちの問題で、私はいま福島県民であり、昔の関係者がかかわるのはよくないのではないか」と考え、静観しておりました。ところが昨日また大宇根さんから電話があって、「現地存続の運動が盛り上がっているから、ぜひ顔を出せ」と言われ、顔を出して何をするんだろうと思って来たわけですが、宮城県美術館の原点についての話を聞いていただこうと思います。


 1970年代はじめ、宮城県が「東北ではじめての本格的な美術館をつくる」という意気込みで、北海道立近代美術館をモデルにしたようですが、同じくらいの規模の本格的な美術館をつくることになりました。「本格的な美術館とは何か」というと、上野の東京都美術館のような「貸しギャラリー」ではなく、竹橋の東京国立近代美術館のような、学芸員を置いて、作品を収集する美術館です。有識者が集まって基本構想がつくられました。


 七十七銀行から1億円の寄付があり、そのお金でカンディンスキーの油絵とデッサンを買って作品収集がはじまりました。単に鑑賞するだけではなく、「観る」「つくる」ことが常時できる体験型の美術館をつくろうとしていました。当時そういう美術館は日本にはなかったんです。


 宮城教育大学に林竹二さんという哲学者の学長がおられ、井手則雄さん(彫刻家)、三井さん(美術評論家)らがいて、独特の教育理念を実践されておりました。体験型の美術館の構想にはこの人たちの考えが入っていたようです。基本構想ができて、学芸責任者として私が赴任してきました。その時私は、東北大のアカデミズムと宮城教育大の教育理念が合体してできているという感想をもちました。

ヴァシリー・カンディンスキー

 《「E.R.キャンベルのための壁画No.4」の習作》

宮城県美術館 所蔵



【設立当初は反対意見も】


 実際にはじまってみると、強い反対意見がありました。三つです。

 一つはカンディンスキーに対する反発。県民に親しみにくいという意見がありました。二つめは、「美術館をつくってほしい」ということで、宮城県芸術協会がチャリティー展を開いて県に寄付しておりました。ところが新しくできる美術館は貸館をしないということで、美術家の方々が反発されました。第三は、川内という川向う(※市街地から見ると広瀬川の向こう)にある東北大の跡地で一般の市民には馴染みのない場所であるという、三つの反対意見です。


 そんななかで私たちは「開かれた美術館」というコンセプトを出しました。「開かれた」ということは美術のいろいろな価値観に対して開かれるということです。カンディンスキーを否定することは、美術館の理念としてあり得ません。さまざまな価値観に対して開かれるという観点から、開館展は「現代日本の美術」という全館をつかった大規模な展覧会を開きました。これには東山魁夷や小磯良平、一方で、荒川修作、河原温、佐藤忠良、堀内正和、ビデオアートまで含めて、同時代の美術の現状を見るということから始めたいということです。この展覧会については河北新報の記者から「カルチュア・ショック」という批評をいただきました。


 地元の作家の方々に対しては、「宮城の5人」というシリーズで宮城県の作家を取り上げ、学芸員に作家論を書かせるという形式で、地元の作家の方々とのつながりを深めていこうとしました。今日この会場に当時のことをご存知の方も出席しておられます。


 そして川内の建築の問題ですが、大宇根さんが担当として前川建築設計事務所から来られていました。建築サイドから「みんなで建てよう美の殿堂」という看板を上げるという話が出た時、「それはやめてほしい、美術館は広場のようなものであってほしい」という、利用者に開かれ、学芸員が働きやすい、そんな空間にしてほしいと大宇根さんにお願いしてできあがったのが本館です。いまバリアフリーが当たり前ですが、宮城県美術館では40年前に実現しています。車椅子が水平、垂直に自由に移動できます。



【いろんな人たちの助けがあってできた美術館】


 この会場に飾られているヘンリー・ムーアの作品「スピンドル・ピース」の写真を見て思い出したんですが、あれは宮城県内の市町村がお金を出してくれて何かモニュメントを置こうということになりました。ちょうどその頃、佐藤忠良さんがパリのロダン美術館で展覧会を開いていて、ヨーロッパのあちこちを訪ねていた時で、忠良さんがムーアを訪ねて推薦してくれた作品です。


ヘンリー・ムーア「スピンドル・ピース」



 エントランス・ホールにジャン・アルプの「葉のトルソ」がありますね。あれは、松下電器、いまのパナソニックから3000万円くらいの作品を寄贈してもいいという話があり、アルプ財団から買ったものです。資料のモノクロ写真を見ていると、ボーリングのピンのように見えてきて不安になっていた時、確か忠良さんが確認してくれたような記憶があります。



ジャン・アルプ「葉のトルソ」



その後、佐藤忠良記念館もつくることになり、全作品と石膏原型、それにマリノ・マリーニの作品など忠良さんのコレクションなどが寄贈されました。カンディンスキーで痛めつけられたので、こんどはボテロの猫やフラナガンの兎、忠良さんのミミズク、少年像などを置いて、自由に通り抜けができる親しみやすい空間をつくることにしました。大宇根さんのアイデアで、三日月型の鏡面効果のある不思議な空間が生まれ、私たちは「アリスの庭」と名付けました。



佐藤忠良記念館

アリスの庭



 このように宮城県美術館は、いろんな人たちの助けがあってできたものなんです。今日取り壊しもあり得るという話を聞いて驚きました。それは歴史的な暴挙であり、環境や文化に対する破壊行為であります。

 これは私の個人的な思いであり、宮城県の人たちはどう考えているのであるかと思っていたところ、今日設立総会の資料を見せていただき、今更私が言うこともないと思い、非常に感動しております。どうもありがとうございました。


 

注1 大宇根弘司 建築家。前川國男事務所出身で、宮城県美術館設計時にはチーフを務めた。また、佐藤忠良記念館の設計を自身の事務所で手掛けた。


 大宇根氏も総会で挨拶を行っています。以下のリンク先で読むことができます  



▶︎参考写真



美術館エントランス ジャン・アルプ「葉のトルソ」の台座に設置されているプレート

「寄贈 松下電器産業株式会社 松下電工株式会社  昭和56年11月」と記載



ヘンリー・ムーア「スピンドル・ピース」の台座近くに設置されているプレート

「寄贈 宮城県市長会 宮城県町村会 昭和56年11月」と記載



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